1885(明治18)年~1889(明治22)年までの當麻小学校のヒストリー
校舎倒壊
前回の通信(episode2)當麻南谷に新校舎が建設されたということを書きました。
その校舎は1888(明治21)年10月16日の大雨で校舎全体が倒壊してしまいます。
校舎倒壊後は、1893(明治26)年まで約5年間、當麻寺宗胤院を仮校舎として使用していたという記録が残っています。

旧當麻村発足
1889(明治22)年4月には、これまで、當麻村・勝根村・今在家村・染野村・新在家村・加守村に分かれていた6つの村が、1つになり「當麻村」が発足しました。
当時の教科は?
当時のどのような教科を学んでいたのかを調べました。
科目は、修身(道徳)・算術・読書・作文・習字・体操の6科目でした。
これに図画と唱歌(音楽)を加えることができたそうです。
シリーズ そのころ社会で起きていた ~自由民権運動~
西南戦争(1877年)後、武力による反乱はなくなり、人々は言論によって自分たちの考えをうったえるようになりました。
板垣退助は、政治は一部の政治家や役人たちで進めるのではなく、欧米の国々のように、国の最高のきまりである憲法を制定して議会を開き、国民の意見を聞いて進めるべきであると主張しました。
そして、政府に国会を開くように求める自由民権運動を指導しました。
当初、政府はこれらの活動を厳しく取り締まりました。
取り締まりの一つとして、「演説を禁止する」というきまりをつくりました。
これに対して、自由民権運動の指導者の一部は「演説がだめなら、歌ならいいだろう! 」と自分たちの主張を歌で伝えたそうです。
これが、現在の「演歌」の語源になっていると言われています。
<参考文献>
「小学校社会6年」日本文教出版
この顔は「西郷隆盛」?
西南戦争時に士族にかつがれた西郷隆盛。NHKの大河ドラマ「西郷どん」の主人公であり、明治維新の立役者としても知られる西郷隆盛。
その西郷隆盛と言えば、右の肖像画(小学生の中には写真だと思っている子もいます)を思い浮かべる人も多いかと思います。
この肖像画は、イタリアの画家エドアルド・キヨソネによって、西郷隆盛の死後、西郷隆盛の弟「西郷従道」と従兄弟「大山巌」をモデルとして描かれたものです。
実際、この肖像画が西郷隆盛と似ていないという声も残っているそうです。
<参考文献>
「鹿児島県総合教育センター」HPより
コメント