1905(明治38)年~1909(明治42)年までの當麻小学校のヒストリー
明治時代の當麻小学校思い出を紐解くと・・・
1985年発行の「110周年史」(當麻町立當麻小学校)には、明治時代の當麻小学校での思い出を綴ったページがあります。
思い出を紐解いてみると、次のようなことが分かりました。
<校舎>
窓は障子か板戸。
廊下はなかった。
運動場と教室の間に縁側があった。
正門に桜(令和5年伐採)があった。
<先生>
とても厳しかった。
竹の「むち」をもっていた。
詰め襟の服を着ていた。
みんな一生懸命勉強していた。
<運動場>
狭く、鉄棒が2~3つあった。
<遊び>
ボールはなく、鬼ごっこをよくしていた。
<放課後>
家の手伝いは必ずしていた。
学校の裏山で遊んでいた。
<服装>
着物だった。

義務教育が6 年に
1907年に「小学校令」が改正され、義務教育が6年になりました。
現在の小学校が6年間になっているのは、この改正から続く形になっています。
運動会が全国に普及
日本での運動会の始まりは1874年に行われた東京・築地の海軍兵学寮での「競闘遊戯会」だと言われています。
当時の種目は、徒競走や二人三脚、頭に水桶を置いて走るなどの障害物競走が行われていたようです。
1900年からは、体力強化と集団行動を学ばせるための「体操」が必修科目となり、日清戦争後は全国各地に広がっていったようです。
当時の運動会の種目は、「騎馬戦」「旗取競争」など、軍事的な側面をもったものが多かったようです。
一方で、運動会は純粋に「楽しい行事」といった側面ももちあわせるようになりました。これは、学校側が日頃の教育の成果を、運動会の観戦で保護者に感じてもらおうとしたのが発端だそうです。
成果を実際に保護者に見せることで、学校への協力を得ようとした狙いもあったようです。
その結果、いつしか運動会は、子どもたちや父母だけでなく、地域住民も一緒に見守る「秋の行事」となっていったようです。
【参考文献】
「明治・大正人の朝から晩まで」素朴な疑問探求会編
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