1945(昭和20)年~1949(昭和24)年までの當麻小学校のヒストリー
戦時下の當麻地区
アジア・太平洋戦争も末期になると、當麻地区からもたくさんの人が出征し、たくさんの方が亡くなりました。
當麻町史によると、「當麻」で34名、「勝根」で12名、「今在家」で11名、「染野」で
13名、「新在家」で11名、「加守」で29名、合計110名の方が亡くなっています。
また、葛城市でもアメリカ軍により空襲の被害を受けています。
次のような記録が残っています。
今年は當麻小学校創立150年であるのと同時に、戦後80年になります。
今一度、平和について考える機会にしたいと思っています。
1945年の夏休みに入ったころに、警戒警報が鳴ったのです。
それからすぐに「空襲警報、敵機来襲!」
その言葉と同時に、二上山から艦載機が現れ、高田市に向かって、それから磐城の方へ向かい、そのあと大阪湾に行くのがコースになっていました。
長尾神社の東に鳥居がありますね。
あの辺まで電車が来たんです。
飛行機が低く下りて、ダダダダダダーッと撃ったら、電車の人たちはクモの子を散らしたようにワーッと降りはったんです。
私の父らは、雨戸をはずしてそこに毛布を敷いて、怪我をした人を乗せて高田まで担いで走っていきました。
14、5歳の男の人でした。
出血がひどく「水!水!水!」とおっしゃってたけど、みんなで「病院へ行くまで、病院へ行くまで」ってはげましながら担ぎ込んだそうです。
そしたら、お医者さんが「もう、この人は助からない。一番欲しいのは水だ。あげなさい。」とおっしゃったのです。
水をいただかれた後に男の方が亡くなられて、みんな悲しみながら村へ連れ帰ったそうです。(新在家・1933年生まれ)

体育館の南側に建つ「英霊碑」には、戦争で亡くなった方のお名前が刻まれています。
戦後の教育改革
1945年8月15日 終戦
1947年4月 1日 学制改革の実施
當麻国民学校から當麻小学校と當麻中学校に分離。
1947年5月 3日 日本国憲法発布
1949年4月
當麻村・磐城村両村組合立白鳳中学校設立
(加守の生徒は香芝中学校に通う)
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